戸隠は、善光寺とならぶ北信濃有数の観光地です。全国から幽玄な雰囲気を求め多くの観光客が古くから訪れています。戸隠の名の由来は天の岩戸伝説によるものです。内容については「弟君である素盞嗚命(スサノオノミコト)のあまりの乱行に天照大神は、岩戸にお隠れになり、世の中は真っ暗になり、大混乱になりました。そこで、困った神々が会議をし、大神を再び外へお連れするため、歌や踊りの祭りを開きました。その賑わいを不思議に思い、天照大神が少し戸をお開きしたところで、手力雄命( たちからおのみこと) が岩戸を押し開き、大神をお迎えしました。その岩戸が下界に落ちて戸隠山になった。」というものです。
そして、戸隠神社を語る上で欠かせない信仰の歴史はさらに古く、地主神として水と豊作の大神の九頭龍大神を祀っています。命の源でもある水の神様です。この源流の信仰が戸隠信仰の始まりであるとも言われています。そこに平安時代、天台密教が伝播するにおよび、神仏習合の顕光寺が創建され、戸隠信仰は修験道とも習合し、この霊地は日本全国に名をはせることになりました。山にこもって修行し、悟りを開く大道場として栄え、修験道を中心に中世から近世までにおいて広く庶民の信仰を集めてきました。しかし、明治初年の神仏分離令により、神仏一体の戸隠信仰は、神道か仏教かの選択を迫られる状況に直面しました。戸隠信仰の源流は、古代人の山への信仰にありますが、仏教的なものは一掃され、神社神道として歩むことになったのでした。(戸隠神社史より)
この修験時代の名残が、戸隠蕎麦と戸隠忍者です。修験は文字通り、断食、瞑想、経典の唱え、滝の下での祈りなどの禁欲的な修行を指します。 修験道は、役行者が起源とされていますが、当地は有数な修験道場として名を全国に知られました。その行の中に木食というものがあります。木食とは、「もくじき」と読みますが、火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行とされており、現在でも比叡山で行われている千日回峰行の中でも行われます。その行の際に、蕎麦粉を水に溶いてかき混ぜ食べる「そばがき」は食べることができるものとされ、その溶いたものを捏ねそして伸ばし切ったものが、江戸時代蕎麦切りと言われ現在私たちが食べる「蕎麦」になっています。
修験僧は、野山を駆け修行を行う中で、キハダをはじめとする薬木やエンメイソウ等の薬草を自らの健康維持に用いると共に、布教の際の手助けとしても活用したとされています。現在でも木曽御岳山の百草丸や奈良県吉野の陀羅尼助、高野山での延命草としても販売されています。
なお、当社の本社工場の建つ戸隠山を鳥居川沿いに下った信濃町柏原の黒姫山麓にはかつて「誓心寺」という寺院が室町時代まではあったとのことです。工場敷地の奥の林には、弘法大師空海の座像が祀られているほか、大日如来の石像等もありかつての修行寺院の名残を感じさせてくれます。そこに向かう途上にはエンメイソウ(延命草)が毎年のように濃い青紫色の花を咲かせる場もあり、かつての修行僧たちの息吹が今も続いているのです。